上杉鷹山は藩校を開校し、その名を「興譲館」とした。
その興譲館で、明治四年から八年までの間教鞭を執ったチャールス・ヘンリー・ダラス氏が、故郷を懐かしんで四つ足の動物は食べないとされた米沢の地で、牛肉を食べたのが食用としての米沢牛のはじまりである。
その味わいにいたく感動したダラス氏は、任期を終え、米沢をはなれる際に一頭の牛を横浜へ連れていった。
彼の友人たちは、その牛肉の旨さを口々にほめそやし、それがいつからか「米沢牛」が全国に広がるきっかけとなった。
「成せばなる」
そう言いたげに、空を指し示すようにも見える像の姿は、まるで鷹山の生き様が表現されているようだ。 (写真右:松ヶ岬公園内の上杉鷹山公の像)